アンドレアソン事件2

目次

第1章 目に見えない客

第2章 パンドラの箱を開ける

第3章 光の中の人々

第4章 エイリアンに選ばれる

第5章 トラップロックでのアブダクション

第6章 森の中の生き物

第7章 誘拐 

第8章 時の博物館

第9章 大きなドア

第10章 インプラント

第11章 クロッカー池に戻る

第12章 UFOレポートにおけるサイキックな要素

第13章 不可解なヘリコプターとMIB

第14章 一体、何が起こっているのか?

第15章 神聖なタイプの接近遭遇?

第16章 ベティ独自の信条

付録

精選文献

索引

第1章 目に見えない客

1979年5月の夕方だった。

巨大な旅客機が着陸態勢に入るために傾きを変えると、機内の窓からボストンの地平線が視界に飛び込んできた。

眼下には、科学技術や文化の国家的中心地が広がっていた。

この都市では、M.I.T.やハーバードといった世界的に有名な機関で、世界最高の頭脳の持ち主が教えたり学んだりしている。

また、市外にあるエレクトロニクス渓谷と呼ばれる工業地帯には、高度のコンピューター、武器、宇宙システムの研究開発に携わる企業が数多くある。

しかし、同じ地球のどこか別のところでは、最も原始的な文明を見ることができる。

宇宙からの訪問者は、石器時代のハンターと宇宙飛行士が同じ世界で一緒に住んでいることに、はたして驚くだろうか?

いや、おそらく私たちよりはるかに進化した頭脳は、その違いにさえ気づかないだろう!

飛行機の着陸装置がドンと地面に接触した衝撃で、私の哲学的な空想が台無しになった。

すばやく過ぎ去る滑走路を見ながら、ターミナルで私を待っている妻のことを考えた。

私はちょうど『アンドレアソン事件』のプロモーションのための3週間の全国ツアーから戻ったところだった。

それはUFOに乗った女性のアブダクションを徹底的に調査した記録である。

1967年1月25日の夜、ベティ・アンドレアソンはマサチューセッツ州サウス・アシュバーナムのキッチンにいた。

彼女の7人の子供たち、母親、父親はリビングにいた。

ベティの夫は自動車事故で入院中だった。

午後6時35分頃、突然家のライトが一瞬点滅した。

すると、キッチンの窓から赤みがかったオレンジ色の光が脈打つように差し込んできた。

ベティは怯える子供たちをなだめ、父親は急いでキッチンの窓から外を見た。

奇妙な形をした小さな生き物の集団が、飛び跳ねるような動きで近づいてくるのが見えた。

小さな人間に似た生き物が5体、木製のドアを真っすぐ通り抜けて家に入ってきた!

ベティの家族はすぐに仮死状態になった。

ある生き物が父親のところに行った。

他の4人のリーダーはベティとテレパシーで交信した。

リーダーの身長は150cmほどだった。

他は約120cmほどだった。

全員が大きな洋ナシ型の頭、猫のように大きな包み込むような目、小さな耳と鼻をしていた。

彼らの口は動かない切れ目で、傷跡に似ていた。

それぞれがサム・ブラウンタイプのベルトで飾られた青いつなぎのユニフォームを着ていた。

袖には鳥のバッジが付いていた。

彼らの指は3本だった。

(その後、宇宙船に乗ると、彼らはグローブを着用した。)

足にはブーツのようなものを履いていた。

歩くというよりは浮いていた。

ベティは初め怖かったが、すぐに強い友情を感じて落ち着いた。

家族は大丈夫かと心配していると、生き物たちは11歳の娘のベッキーのこの不思議な無意識状態をいったん解いて、大丈夫であることを約束した。

それからベティは外に連れ出され、裏庭に傾斜した丘の中腹で静止している小さな宇宙船に乗せられた。

乗り物の直径は約6mだった。

それは2つの円盤のようで、一方がもう一方の円盤の上で逆さまになっていて、てっぺんに小さな構造物があった。

小型宇宙船は加速し、より大きな母船と合体したみたいで、ベティはそこで不思議な装置の影響を受け、身体検査を受けた。

その後、彼女は宇宙人のところに連れて行かれ、奇妙な実習を受けた。

その結果、辛かったがうっとりとした宗教的体験を受けることになった。

その日の夜10時40分、ベティは彼女を連れて行った2人の宇宙人によって家に帰された。

家に帰ると、彼女の家族はまだ仮死状態だった。

彼女が留守の間、監視するために1人の生き物が残っていた。

その後、まだ何らかのマインドコントロール下にある家族をベッドに寝かせ、宇宙人は去って行った。

宇宙人は何度かベティに、あることが彼女の心の中に閉じ込められていると告げた。

彼女は指定された時間まで彼らとUFO体験を忘れるように指示された。

彼女が意識して覚えていたのは、その奇妙な遭遇のほんの一部だけだった。停電、窓から差し込む色のついた光、家に入って来る宇宙人。

敬けんなキリスト教徒であるベティはこの生き物を神聖なもの、または天使のようなものと解釈した。

UFOの話題を彼女はほとんど知らなかった。

彼女の学歴はわずか10年で、基本的には家族、教会、地域の社会活動に関心があった。

彼女は自分の体験がUFOとの遭遇であった可能性を考えたのは、ずっと後になってからだ。

1975年、ベティはUFO研究家のJ.アレン・ハイネック博士が一般から個人的なUFO体験を募集しているという地元紙の記事に返事を書いた。

しかし、ベティの手紙にはわずかな情報しか書かれていなかったので、1977年1月に私たちが調査するまでその手紙は保管されたまま忘れ去られていた。

私たちの調査チームは、太陽物理学者、電子工学エンジニア、航空宇宙エンジニア、電気通信スペシャリスト、そして私で構成されていた。

私たちはまた、プロの催眠術師と精神科で訓練を受けた医師を雇った。

12ヶ月にわたる調査の間、私たちは広範囲にわたる身辺調査、2回のうそ発見器テスト、精神科医との面談、14回におよぶ退行催眠の会合を行った。

催眠状態でベティと彼女の娘は矛盾のない詳細なUFO体験を思い出し、生理的な反応も本物だった。

全3巻528ページの報告書は、目撃者は信頼できるまともな人物であり、本当にその体験が起こったと心から信じていると結論づけた。

1977年の秋、ベティと2人の娘と彼女の母親はマサチューセッツ州からフロリダ州に移住した。

そして、私たちの調査の第1段階は実質的に行き詰った。

私は1978年のほとんどを『アンドレアソン事件』の執筆に費やして忙しかったが、たまに手紙や電話をしてベティの経過を記録していた。

1978年の秋、マサチューセッツ州アシュバーナムに戻ってきたベティは、調査の後に起こった奇妙な出来事の数々を私に語ってくれた。

時々、彼女は奇妙なシンボルやスケッチを描きたくなる抑えきれない衝動に駆られた。

彼女はまた、自分の声のようなものが内側から聞こえてきたが、それは未知の言語だったので、聞こえた通りに書き留めようとした。

ベティはまたポルターガイスト現象も述べた。説明のつかないラップ現象、声、小さな浮遊する光の玉などである。

彼女の母親や娘たちもこうしたことをいくつか一緒に体験していた。

私はこれらの報告にはあまり注目していなかった。

正直なところ、私たちの活発な調査が彼女をむしばんだのではないかとさえ思った。

しかし、あまりに多くのことが起こっていたみたいで、彼女は1978年6月に私にこう書いてきた。

「時々、こんなことをあなたに書くのがイヤになります。まあ、ちゃんとした理由があります。」

将来のために、私はそれら奇妙な出来事をすべて記録し続けるように、しぶしぶ彼女に勧めた。

しかし、その時点では、私はそれらに取り組む時間も気持ちもなかった。

ベティは1978年8月21日にボブ・ルカと結婚した。

フロリダで新婚旅行をした後、コネチカット州で購入した家に戻った。

彼らが入居したのとほぼ同時に、古典的なポルターガイストの特徴をすべて備えた何か他の物が一緒に引っ越して来たようだった。

以下はベティの手紙から抜粋したいくつかの例である。

9月3日(日)午後11時:ボブと私がリビングのソファに座っていると、(約2m離れた)ドアベルが2回鳴った。

私はネグリジェを着ていたので、すぐに立ち上がって階段に向かった。

ボブは立ち上がって玄関に行き、いたずらかもしれない、と思って前庭を見回した。

ボブが戸口に立っていると、目の前にボタンがあるのにドアベルが再び鳴った!

ボブが調べたところ、ドアベルは押すと1つのトーンで鳴り、離すと低いトーンで鳴ることがわかった。

ボタンがくっつけられていた可能性はない。

ボブが配線をチェックすると、これがベルを鳴らす唯一のボタンであることがわかった。

私はボブと一緒にその出来事について詳しく調べた。

報告に間違いがなければ、それは説明のつかないことだった。

でも、それは二度と起こらなかった。

まるで何かがその存在を知らせるためにこの事件を利用したかのように、その後ますます多くの説明不能な現象が起こった。

1978年9月8日:ボブと私はドライブインに行った。

ボニーとシンディ(ベティの娘たち)は、2人の友人と一緒に家でモノポリー(というボードゲーム)をしていた。

棚の上のライトが点滅したので、子供たちは怖がった。

照明のコードの接続不良?

ソケットの不具合、電球の緩み、ごくローカルな停電?

しかし、そのあと事態はちょっと複雑になった。

それから今日、ボブは自宅で車の整備をしていた。

仕事を終えて、地下室のライトをパチッとつけて、地下室の階段を降りた。

ライトの下を通り過ぎると、ライトが消えた。

彼は階段を上って戻り、スイッチを入れたり切ったりした。

何も起こらなかった!

それから階段の下まで戻り、そこに立った。

ライトが点灯した!

彼は電球が緩んでいないか確認した。

そんなことはなかった。

同じ日の午後遅く、地下室の梁(はり)からラップ音が鳴り始めた。

夕方にはバスルームのキャビネットのルーバーが勝手に上下した。

1978年9月9日:ボブはリビングで男の話し声を聞いた。

彼はラジオだと思って止めに入った。

スイッチは切れていた。

そこには誰もいなかった。

10月になると、ベティが報告した現象はかなり複雑になっていた。

彼女とボブはとても不安になり、私に助けを求めてきた。

私はどう答えていいか分からなかった。

彼ら2人とも正常で健康な人であることは分かっていたし、UFO調査員ではなく超心理学者が必要だと感じていた。

1978年10月19日:夜の8時半頃だった。

私は寝室の隣のバスルームにいた。

ボブは6メートルほど離れたベッドのそばの床で靴下をはいていたところ、突然、部屋の上方でウィーンという音がした。

私はすぐに歯磨きをやめた。

ブラシを口にくわえたまま急いで振り返ると、ボブが私を見上げてバスルームのドアに向かって突進してくるのが見えた。

そこにたどり着く前に、急に彼の姿がドアのところに現れた。

私は彼が自分の姿に突進して、その中に入るのを見た!

奇妙な出来事は冬の間中続いた。

しかし、私は執筆に忙しかったので、ただ根気よく話を聞くしかなかった。

1979年の春、ついに『アンドレアソン事件』が出版された。

ベティとボブと私は、息をのむような全国プロモーションツアーに一緒に出かけた。

この間、ふたりは自分たちの身に起こっていた奇妙な出来事について個人的に話をした。

私は面と向かって彼らを厳しく追及したが、彼らがこれらのいくつかを追体験するのを見て、疑うのがとても難しいと感じた。

過去の調査で彼らが正直であることが証明されていた。

ベティとボブはありふれた出来事を大げさに言っていたのか、それとも幻視・幻聴を一緒に体験したのか?

結局のところ、実は2人とも宇宙人が自分たちの動きを注意深く監視していると信じていた。

そのように考えていつも心を痛めているとすれば、誰がそのような想像を責めることができるだろうか?

私はそのような出来事はすべてまれな偶然だと考えていたので、ベティやボブのような経歴を持つ人はなんて簡単に超常現象と考えてしまうものだろう、とつくづく思った。

興味深いことに、プロモーションツアー中の私の前で奇妙なことが起こることもあった。

これらの出来事は単に奇妙な偶然だったのか、それとも超常現象だったのか?

ツアーの間、私は催眠術をかけられたベティが宇宙人に針を鼻とへそに入れられた時のことを追体験しているカセットテープを持っていった。

いくつかのラジオ局がそれをしきりに放送したがっていた。

しかし、テープを渡された技術者たちは何も録音されていないと言い張った。

自分も技術室に入ってみたが、彼らは再生しようとしてもうまくいかなかった。

しかし、放送局を離れると、きまって何の問題もなく再生されるのだった。

ありがたいことに、『マイク・ダクラス・ショー』ではうまくいった。

再生中、観客のライブの表情を見ていると、ベティの体験をほんのちょっと聴いただけでろうばいしていることが分かった。

私がKTRHラジオ局の『トーク オブ ヒューストン』に出演した時は、テープは再生された。

しかし、ベティのおびえた声が電波に乗った途端、急に停電が起きてラジオ局の電気が消えた。

「どうなっているんだ?どうして発電機のスイッチが入っていないんだ?」と司会者がイライラ叫ぶ中、私は暗闇で座っていた。

妙な話だが、ボストンで『トム・ラーソン・ショー』の収録をした際、再びカセットテープが使用された。

後日、私たちはボストンに戻って再収録をするように頼まれた。というのも、私たちのインタビュー撮影中にテレビ局のビデオ撮影装置がおかしくなったからだ。

同じ日の朝に収録された他の番組は問題なく映った。

ベティ・アンドレアソンとのツアー中、メディアも観客もある特定の質問を何度も何度も私たちに投げかけてきた。

1年以上にわたってほぼ毎週のように全米各地や海外の国々から手紙や電話で同じ質問が私に突きつけられた。

調査は続いていますか?

ベティとその新しい夫はさらに進んだ体験をしたのですか?

ベティとボブは今何をしていますか?

ベティがもっと前にUFOに遭遇していた可能性を追求しましたか?

しかしツアーの後、私は『UFO調査員の事件簿』という別の本の調査と執筆に没頭するようになり、第三種接近遭遇の目撃者がベティとボブが体験しているのと同じタイプの心霊現象を報告していることがわかった。

デビッド・ウェブ調査員と私は、UFO着陸の余波で同じような現象を目撃した非常に信頼できる別の家族からの報告書を調べて、彼らの敷地内における多数の目撃情報を調査した。

私自身はルベル家族(関係者のプライバシー保護のため仮名)の身辺調査を念入りに行った。

彼らは地域社会で非常に尊敬されていた。

彼らをよく知る神父、有力な実業家、警察署長などが、勤勉な信心深いカトリック教徒で正直で信頼できると証言した。

ルベル家族も自宅の敷地内でUFOを目撃した後、家の中でブーン、ブーンという音だけでなく物音と足音を聞いた。

ベティとボブの経験と比べてみてほしい。

ジョアン・ルベル 私たちはリビングに座っていたんだけど。その夜はなぜかみんな不安だった。マリリンは「あの音は何? まるで蜂みたい」と言った。ジェリーは「ああ、聞こえる」と言った。それから彼は見回して「ああ、だんだん大きくなってきた」と言った。私には聞こえなかった。マリリンはもう聞こえなかった。彼(ジェリー)は両手で耳をふさいだ。ひどい音だと彼は言った‥‥彼は前かがみになり、椅子の上で倒れそうになっていた。

上記の事件の数日後、ルベル邸内でポルターガイスト現象が立て続けに発生した。

鍵のかかったドアがパッと開いた。

この恐ろしい現象を止めようとして脇柱にナイフを差し込むと、ドアがポンと開いてナイフが外れてしまうのだ!

ルベル家族は数か月前からいくつもの超能力を見せる奇妙な男の不審者を目撃していた。

何度も警察に通報した。

しかし、警察が到着する直前にその幽霊のような人影は消えてしまうのだ。

ルベル家族は何度も地元の神父を呼んで自宅を清めてもらったが、無駄だと分かった。

彼らの家と外の敷地には幽霊が出続けた。

分別のある若者のナンシー・ルベルは、こう表現している。

土曜日の夜9時ごろ、私は寝室で座って縫い物をしていて、レコードを回して音楽に合わせて歌っていました。

ふと顔を上げると、ドアが2、3㎝ほど開いていました。

誰かがそこに立って覗いているのがわかったのは、頭の上から光が差し込んでいたからです。

でも、そこから下には光がありませんでした!

覗いている頭の輪郭は見えましたが、それが誰なのか分かりませんでした...

きっと父に違いないと思い、「いい加減にして!」と言って縫い物に戻りました。

もう一度顔を上げるとまだ覗いていたので、手を伸ばしてさっとドアを開けました。

何かの姿が本当に、本当にすばやく消え去るのが見えました。

ナンシーは寝室のドアから覗き込んだ人影を「身長170cmくらいでスリムでした。ファスナーを開けたジャケットを着ているように見えました。ちょっと灰色に見えたけど、違っていました。顔には何も見えませんでした」と表現している。

ルベル家の敷地におけるUFOと超常現象の詳細については、『UFO調査員の事件簿』を参照してほしい。

このような平静ではいられないタイプの事件をよく知るようになってから、私はベティとボブの一連の報告に対してより真剣に向き合うようになった。

ベティは1967年のアブダクション以前に同じような出来事を何度か経験していた。

過去のUFO体験がこのような出来事の引き金になった可能性はあるのだろうか?

第2段階の調査が必要だった。

しかし当時、ベティもボブも非常に心配していて、退行催眠の会合を再開することをしぶっていた。

ベティとボブが語った体験は間違いなく幽霊目撃者のカテゴリーに入る!

さらに、マークのない黒いヘリコプターが彼らに関心を寄せているようだった。

自宅上空の木の先端くらいの高さを飛行したり、同じタイプの機体が車を追いかけたりすることがあると説明した。

黒くてマークのない謎のヘリコプターはUFO問題全体の中でよく知られたものであり、アンドレアソン事件のような近接遭遇ケースやキャトル・ミューティレーションとの関連があるようだ。

誰が操縦し、何をしたいのか?

ベティとボブ・ルカを悩ます出来事は1979年に入っても続き、この原稿を書いている時点(1980年12月)でもまだ続いている。

1979年8月4日:ボブはダイニングで飛行訓練の勉強をしていました。

私は台所でおやつを作っていました。

応接室のドアのほうを見ると、普通サイズで何の特徴もない男性の立体的な頭がドアの横から飛び出してきました。

ただ現れて消えたわけではないので、怖くなりました。

ぞっとして、すぐにボブのところへ走りました。

2人で戻ってきたときには、もうなくなっていました。

これはシンディ(ベティの娘)がしっかりとした影のある男性の脚と足を見たのと同じ場所です。

1979年8月6日:娘たちと買い物に出かけました。

ボブはダイニングのテーブルに座っていると、また誰か、または何かが2階を歩き回る音がしました。

翌日、ベティは再び謎めいた秘密のメッセージを受け取った。

テレパシーの受信中、彼女は私にこう言った。「体にものすごい熱を感じ、頭皮の左上に寒気や鳥肌が立ちました。」

ベティとボブの報告の重大さがようやく分かりはじめると、私はいらだちを覚えた。

ルカ家はコネチカット州にあり、車で行くと4時間近くかかる。

私はGTEシルバニア社で週に40時間働いていた。

新しい本の執筆に加え、自分の小さな天文台とプラネタリウムのメンテナンスと運営をし、UFOについて講演し、地元の教会と家庭生活に深く関わっていた。

このような過密なスケジュールでは客観的で詳細な調査は不可能だと思った。

一方で、見たところUFOではないような現象に別のUFO調査員を担当させるのは気が進まなかった。

また一方では、このような出来事を誰に話すか気をつけるべきだと思った。つまり、このような報告は『アンドレアソン事件』の当初の品位を下げる可能性がある。

おそらく世間はベティもボブも変人扱いするだろう。

しかし、このような現象はUFO現象と直接的、間接的に関係があるのではないかと思う一流の研究家たちもいた。

接近遭遇によって目撃者の生まれつきのサイキック能力が何らかの形で強化され、超常現象に気付いて交流できるようになったと思うものもいた。

また一方で、このような心霊現象はUFOのパワーが直接的な原因であると思うものもいた。

最後に、私は以前の調査で精神科医としてベティの面接を担当した医師に頼った。

彼はコロラド州の大企業で仕事を始めるためにちょうど出発するところだった。

しかし事情を説明すると、西に向かう途中でルカ家に立ち寄ることを快諾してくれた。

彼の訪問後、私はベティから手紙を受け取り、何が起こったのかを知った:

1979年10月24日、25日:ボブと私はコーンバーグ博士に会いに行く途中でした。

午後9時45分、2つの赤みがかったオレンジ色の小さな光の玉(燃える石炭のようなもの)が車のボンネットとフロントガラスのラインの約5∼7センチ上を高速で追いかけてきました。

それらは12センチほどの間隔を空けていました。

それらは明るい光跡を残しながら前に飛び去りました。

私たちはホテルに到着し、コーンバーグ博士と会い、そしてみんなで自宅に向かいました。

私たちはたくさん話し合いました。

突然、キッチンから食器がぶつかるような大きな音がしました。

みんなその音を聞きました。

ボブはうちの猫がやったのかなと確認しましたが、猫は外にいました。

また、娘たちは2人ともぐっすり眠っていました。

それから博士と一緒に車でホテルに戻るために外に出ました。

ボブとコーンバーグ博士は顔を上げました。

家の上空のとても低い位置に、巨大な葉巻型の雲が浮かんでいました。

空の他のところは晴れていて、星を見ることができました。

雲は10分間そこでとどまっていました。

午前5時に出発しました。

後日、博士と電話で話したところ、例の奇妙な音と非常に珍しい動かない雲の両方とも証言してくれた。

しかし、どちらも異常であるという確かな証拠はなかった。

コーンバーグ博士はベティが精神病ではないとする初期の鑑定が正しかったことを再確認し、いつかまた彼女らと面会したいと言っていた。

彼の鑑定結果は付録に載っています。

私はベティとボブを助けることができないと感じた。というのも、彼らを困らせているどんなことも、それを止めるために私が個人的にできることはほとんどなかったからだ。

彼らの宗教における信仰が大きな助けになっていると私は確信している。

ベティの影響で、最近ボブはキリスト教を信仰するようになった。

2人とも、何が起きても神は自分たちに危害が及ぶことを許さないと、強く信じていた。

奇妙な出来事は続いた。

1980年の春になると、報告されているこれらの出来事について身近な誰かがより詳細な調査を試みるべきであることは明らかだった。

私は最終的にコネチカット州の調査員をこの事件に割り当てることにした。

それと同時に、ベティもボブもさらなる退行催眠を受けることに同意した。

ボブは催眠術によって何が出てくるかわからないという恐怖心よりも、自分のUFO体験に対する好奇心の方が勝っていた。

ベティはまだとても恐れていたが、1967年のアブダクション以前にUFOを体験している可能性に興味もあった。

彼女は10代の頃、「月のような」丸い物体が空から自分に向ってくるのを見た記憶があった。

その時に小さなBB弾のようなものが彼女の鼻に入れられたのだろうか?

こうして私たちは地元の催眠術師のお世話になった。

それでは、よくある質問に簡単に答えよう:

そう、調査は確かに継続している。

そう、ベティとボブとその家族はさらなる超常現象を体験した。

そう、私たちはベティがもっと前にUFOと遭遇していた可能性を追求してきた。

ベティの退行催眠の会合をさらに立て続けに行うことで、この2つの疑問に対する答えが明らかになった。

伝えられた出来事は、信じやすい人でも疑いたくなるものだ。

アンドレアソン事件のもう1つの未解決問題はボブ・ルカが報告した第3種接近遭遇に関するものだった。

彼は初めての調査で恐ろしいくらいはっきりと自分の体験を思い出し始めたので、これ以上は催眠を受けたくないと言った。

しかしそれ以降、彼は何度か退行催眠を受けることに同意して、その結果、私たちの追跡調査で最大のサプライズの1つに出くわすこととなった。

この本は多くの点で私の以前の著作よりも「奇妙指数」が高く、それは圧倒的でもあり恐ろしくもあることを意味している。

アンドレアソン事件とこの種の他のUFO事件には多くの類似点があり、共通の要因が示唆された。

しかし、私たちの第2段階の調査によって、UFOの歴史で比類のない想像を超えた報告だということが明らかになった。

調査責任者の言葉を借りれば「あまりにも信じがたいので、信じられる!」

この好奇心をそそる言葉をもって始めよう。

第2章 パンドラの箱を開ける

1980年3月、私はコネチカット州のUFO研究センター(CUFOS)1の調査員リチャード・ナイツにアンドレアソン事件の第2段階調査の責任者となるように依頼した。

優秀な催眠術師を探した結果、フレッド・マックスが選ばれた。

フレッドはこの地域の医師と一緒に働き、行動心理学で学士号を持っていた。

彼にはUFOを体験したと主張する人たちに関する予備知識や経験はなかったが、有料のコンサルタントとして私たちに協力する気があった。

フレッドは親睦を兼ねた最初の会合を1980年3月17日に予定した。

彼は催眠術の被験者として適しているかどうかを確かめるために、最初にいくつかお決まりの検査を計画した。

リチャードがこの会合に参加できずに残念だった。なぜなら、その晩わかった現実離れした出来事は、不慣れで手助けを受けないフレッド・マックスにとっては火のような洗礼であったからだ。

この初めての会合は最初のアンドレアソン事件の最も奇妙な部分にすら匹敵するものだった。

そんな事情があるにもかかわらず、フレッドはとても上手くやった。

フレッドと妻のベリルはとても思いやりがあり、話し方も穏やかだった。

フレッドは笑顔に愛嬌があり、優しくもしっかりした声をしているので、一緒にいると人はすぐにアットホームな気持ちになる。

彼らは自分たちの自宅の落ち着けるところで会合を行うことにこだわった。

彼らはベティとボブを温かく迎え入れて、お互いを知るために座って雑談をした。

いくらか話し合ったが、ベティはまだ少し不安そうだった。というのも、彼女自身が初めて退行催眠を受け始めた時、人によっては重い情緒障害を引き起こすような記憶のあることが発覚したからだ。

フレッドは自発的な被験者を望んでいたので、最初の数回はボブに催眠術をかけることになった。

ボブは被験者としてすぐれていることが分かった。

フレッドは彼を簡単に深い深いリラックス状態へと導くことができた。

ボブは(たいていの被験者たちがそうであるように)自分が本当に催眠術にかかったのか疑っていた。