例えば、1985年から1993年までの私の経験では、宇宙人のような生命体には驚くべき副作用があった。それは、ビジターと同時に死者にも接触する、ということだった。幽霊ではない。それらは完全に物質的なもののようだった。
おそらく、私たちが魂をもっとはっきり理解すれば、私たちとこの不可解な知性体とのギャップはせばまるだろう。多分、そういうわけで、マスターは魂についてたくさん話をしたのだろう。私に魂について、新しいやり方で理解させようとしたのだ。
「魂は自然の一部である」、そして「魂の科学は単にもう一つの科学にすぎない。超自然的なものはなく、物理学があるだけだ」、と彼は言った。
科学はこれを信じていない。科学では、魂は存在しないので、それを検出することはできない、と考えている。しかし、マスターはそれを自然の一部とみなしていた。たとえ能力のある人がこの力を使って悪用したとしても。
現代の西洋文明は、ローマ帝国時代と同じように、魂に関して矛盾をかかえている。当時、教養のあるエリートは、教養のない人々に対し、魂はばかげたものだとして、神々と同様に迷信だと片付けた。
同様に、西洋の科学者や知識人で、魂が有望なアイデアだと考える人はほとんどいない。魂はどこにあるのか? それはどのような形になるのか? 「意識の座」である脳が機能を停止した後も、意識を保つ何かがどうやって存在し続けるのか?
鍵のマスターは、アイデア全体にまったく新しい方法でアプローチする。彼は超常現象を否定している。自然界だけが存在し、私たちが理解している部分と理解していない部分がある、と言うのだ。
理解していない自然の部分を否定することは、人間の思考や文化に特有なことだ。ヴォルテール(フランスの哲学者)は、旅行者がポイ捨てした魚の骨を化石と考えなかった。かつて隕石は、馬鹿げたファンタジーだと思われていた。ライト兄弟がキティホークを飛行する8日前、ニューヨークタイムズ紙は、空気より重い機械を使って飛ぶ馬鹿げた考えのうわさをするのはやめるべきだ、という意見を発表した。当初、タイムズ紙とScientific American(雑誌)は、飛行はデマだと主張していた。
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