キリスト教は三つ組の能動的な側面で、イスラム教は受動的な側面で、仏教は調和の側面だ。キリスト教は神を求め、イスラム教は神に降伏し、仏教は神を見つける。これらを3つの別々の体系とみなすと、それぞれのすばらしい教えを見落として、部分的になってしまう。キリスト教徒として神の国を探し、イスラム教徒として自分自身を神に捧げ、仏教の活力に満ちた静かな瞑想によって、新しい仲間をみつけなさい。
これらの言葉には、重大な真実があるように思われるし、この資料の多くの部分と同じで、これまで私たちが考え慣れているよりも大きなスケールに触れている。私たちは、数千年単位ではなく、数十年あるいは数百年単位で考える。そして、私たちは明らかに大きなスケールで考えることがないので、3つの偉大な宗教を調和させ、1つのものとして実践する方法を見つけないのだろう。
実際、鍵のどの説明においても、何もかものスケールが扱われている、ということが大事だ。例えば、マスターの神の概念は、私たちの概念よりもはるかに広く、比べものにならないくらい暖かいものだ。彼の説く神のモデルは、ホログラムだ。神は万物にまんべんなく存在するのではなく、万物に全体が存在する。
このアイデアは、2つの注目すべきものをもたらしている。それは単に人類だけではなく、すべての生命体が、計り知れず信じられないくらい重要なものだ、と再定義している。しかし、それはまた、かなり冷酷でどうすることもできない感じがする。たとえ、私のすべての分子に神が宿るとしても、日常生活とかけ離れたこのような偉大なことを、一体どうしたら気付くことができるだろうか?
彼はこの変化のことを、あっという間にすべてを変える内部の閃光のようなもの、とは言わなかった。それどころか、彼は全く新しい方向を指し示した。
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