13世紀のマスターであるマイスター・エックハルトが、私たちは「神が通り抜けて輝くことのできる透明なコップのように」ならないといけない、と言ったのと同様に、彼は降伏することについて話した。
ある程度だが、私は探索欲を手放し、単に旅をすることができるようになった。私は、肉体ではなく私の核心である繊細な体の中で、知覚を始めるようになり、肉体は私自身ではなく、存在のための道具だ、と見なすようになった。
そうすることで、私は天国の本当の境界を見つけたと思う。なぜなら、この体験をするようになると、尋常でない喜びで満たされるからだ。私が述べたように、マスターが「キラキラ輝いて」見えたのは、彼の体が、実在とは矛盾した喜びで満たされていたからだと思う。
彼のアイデアの中で最も重要なものの1つは、私にとっては全く予想外のものだった。キリスト教と仏教とイスラム教は、実際のところは三人の異なるマスターによってもたらされた1つの宗教で、それぞれのマスターが、より大きな全体の違う見方を主張している、ということだった。
三つ組、という古くからの法則をはっきりと理解すれば、三つの方法が協調して作用することを彼が説明したことには、大きな意義がある。バックミンスター・フラーが「宇宙の構成要素」と名付けた3の法則では、万事はかみ合う三つ組に分割される、と基本的に考えている。三つ組には能動的な面と、受動的な面と、その二つのバランスを保つ三つ目の面とがある。
キリスト教は三つ組の探求する面または能動的な面で、イスラム教は降伏する面で、仏教はバランスをとる面だと彼が説明した時、教義や信条を超え、そして最近数世紀にキリスト教やイスラム教に加えられた粗野なイデオロギーをはるかに超えた三つの教えによって、突如としてより広大な全体像を見渡せたので、私は驚いた。
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